「本線」と名のつく路線で、
唯一「全線」が廃止された鉄路があった。
「名寄本線」
名寄本線は1915年11月1日に開業した湧別軽便線(遠軽-社名淵)を発祥とし、その後いくつか路線の形を変えながら延伸。名寄線として全通を果たしたのは1921年10月5日のことでした。さらに2年後、路線名が名寄本線と改められます。
名寄本線は網走本線ルートに代わって札幌方面と網走方面を連絡する大命を与えられましたが、1932年に北見峠という難所を克服した石北本線が開業すると、遠軽-野付牛(現在の北見駅)を石北本線に編入という形になった他、石狩地方と北見地方を連絡する使命を石北本線に譲ることとなりました。
全通からわずか11年ほどの天下でした。
網走本線の一部(後の池北線)同様、本線と名を打ちながらも単なるローカル線に転落してしまった名寄本線。それでも沿線の発展に貢献し続け、人々の生活の中心として存在し続けました。渚滑線や興浜南線といった支線も開業し、急行「紋別」や「急行「天都」など、いくつかの優等列車も設定されました。
地域輸送の面では仮乗降場が大量に設置され、人々の生活を支えていました。
<キマロキ編成 名寄本線の跡地上に保存されている>
しかし、幹線鉄道として開業した名寄本線にも危機が訪れます。
財務状況が悪化する国鉄の再建計画が浮上し、赤字線はバス転換をしていくという案が打ち出されました。いわゆる特定地方交通線に、名寄本線も指定されてしまったのです。これに対し、沿線は大きな衝撃を受けると同時に廃止反対運動を展開。特に興部町では廃止反対ステッカーを町内全戸に対して配布、大規模な署名運動や陳情の展開、さらに団体による名寄本線を用いた旅行やデモ行進も行われました。
こうして根強い反対を受けたため、運輸省は道内長大四路線(名寄本線、標津線、池北線、天北線)の廃止を一時保留。その際時の運輸大臣は「永久に存続させることと同義」と発言したものの、翌1985年8月2日、時の運輸大臣は長大四路線の廃止を容認しました。
沿線各位が安堵しかけていた矢先の廃止容認でした。
やがて国鉄が分割民営化されると、名寄本線の経営も新会社「北海道旅客鉄道(以下JR北海道)」が引き継ぐこととなりましたが、タイムリミットは2年間。
議論は中々進展せず、平行線。
このままでは廃止は確実という危機的状況の中、国から突如として池北線および名寄本線の「第三セクター鉄道転換案」が浮上し、提示されたのです。
ただし名寄本線が存続できるといっても、全線ではありません。
この案は名寄-下川間と遠軽-紋別間を第三セクター鉄道として転換し、下川-紋別間はバス転換するというものでした。
これに対し、沿線自治体(特に廃止区間となる興部町)は道に全線存続を陳情。しかし道は「無理だぁ・・・(震え声)」と匙を投げました。
長大な過疎路線・名寄本線の維持は、
北海道にとってもかなり難しい話でした。
仮に道を抜きに地元負担で全線存続をさせるとしても、やはり名寄本線を維持するために必要な費用を将来にわたって捻出することは難しい。そのうえ累積赤字を解消できる見込みがないため、運輸省からの認可が下りないことは確実でした。
こうして全線存続の望みは絶たれ、沿線に残された選択肢は「バス転換」か「分断による転換存続」となれました。
名寄-下川間の決着は早かった。
そもそも路線距離が短い上、バス並の運賃値上げは必須であり、また両市町とも将来に渡って鉄路を維持すること財力が仮にあるとしても、その他の施策を満足に実施できなくなる可能性がありました。
このため、両市町はバス転換の上、道路への投資による不便の解消を選択。
また遠軽-紋別間に関しても、遠軽町はバス転換の方針を早々に呑みます。
紋別市としては飲もうと思えば飲める案ではあったものの、分断されることで名寄側や廃止区間からの基金が得られない上、そもそも名寄本線自体が減便に次ぐ減便で、とても生活利用できる代物ではなくなっていました。(廃止時点で10往復、うち各駅に停車するものは3往復のみ)。
鉄路存続を強く訴え続ける興部町。
メリットの少なさからバス転換を選んだ名寄市や遠軽町。
結局興部町の訴えも、前述の道の諦めや三セク転換の認可が確実に下りないという現状に敗れました。一括存続にこだわったことや、残されることとなった区間にしても将来にわたって鉄路を維持することが非常に困難な上、特に名寄側に関してはメリットも少ないことが判明し、名寄本線は1989年5月1日に全線廃止となりました。
<今も遠軽駅に残る紋別・名寄方面の案内板>
まさかの「本線」が全線廃止。
この事実は今でもネタにされているが、多分これから「本線」と名を打つ路線が全線廃止に追い込まれるケースは増えていくでしょう。
しかしその先駆けとなってしまった名寄本線。
かつては幹線鉄道だったはずが、短縮ルートの開業により赤字ローカル線へと転落。
一部区間の存続話があったものの、主に廃止区間沿線による強い反発。
そして存続区間に突きつけられた厳しい現実。
完全にとばっちりを食らってしまった遠軽側。
ハナから絶望しかなかった名寄本線の運命は、悲劇というほかないでしょう。