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「オードリー・ヘプバーンは身一つで海を越え、黒のドレスで世界へ飛び込んだ」──息子ショーン・ファーラーが語る、母の素顔。

オードリー・ヘプバーンがこの世を去ってから約30年。『ローマの休日』(1953)や『ティファニーで朝食を』(1961)をはじめとする数々の名作を残し、永遠のファッションアイコンとして今なお私たちの心に生き続けている彼女だが、私生活では、愛を求めるあまり苦しい経験も。ドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』では、そんな一人の女性としての彼女の人生を追いかける。本作の制作にも深く関わり、誰よりもオードリーのことを知る長男のショーン・ファーラーに話を聞いた。
オードリー・ヘップバーン、ショーン・ファーラーAudrey Hepburn has a joyful reunion with her son Sean three years old upon his arrival from Los...
Photo: Bettmann/Getty Images

──今作は2019年のオードリー・ヘプバーン生誕90年を記念して制作されたそうですが、すでにオードリーに関するドラマやドキュメンタリーは多数存在します。今作はどのような点でほかの作品と一線を画すのでしょうか?

オードリー・ヘプバーンの華々しい映画スターのキャリアを超えて、一人の女性という点にフォーカスしているところだと思います。もともと私自身は2019年のアニバーサリーイヤーに向けて、ヨーロッパを巡回する展覧会「Intimate Audrey」を企画していました。過去に行った企画展で気がついたのは、来場者たちはアカデミー賞や母が着たドレスよりも、オードリー・ヘプバーンという存在そのものに惹かれているということ。そこで「Intimate Audrey」では、彼女のキャリアではなく、一人の人間・女性としての彼女にフォーカスしようと考えたのです。そんな構想を練っていたときに今作のプロデューサーのニック・タウシグからドキュメンタリーの話があり、協力を約束しました。ただ、母と共演をしたスタッフやキャストの方のほとんどはすでに亡くなっています。さらに先ほどおっしゃったように、すでにオードリー・ヘプバーンの物語は何度も語られているので同じ手法では意味がない。そこで展覧会と同様、「一人の女性」という視点で映画も撮ってみてはどうかと考えました。ちなみにこの展覧会では、カタログの代わりに『リトル・オードリーのデイドリーム』という題の絵本を発表しました。

──日本でも翻訳版が出版されています。とても素敵なアイデアですね。

展覧会のカタログというのは不思議なもので、その場に行くと買わなければいけない気がするものの、実際に購入後は、見返すことはほとんどありません(笑)。それでは寂しいと思ったので、母らしい目線で大人から子どもまで何度も読み返せる、意義のあるものを作りたかったのです。

キャリアより子育てを優先した母、オードリーの芯の強さ。

1954年に俳優メル・ファーラーと結婚し、1960年には待望の第1子となるショーンが誕生した。

──あなたは成長する過程で、いつ自分の母親が特別な存在であることに気がついたのでしょうか?

母が私にくれた最高の贈り物の一つが普通の暮らしでした。幼いころは母の仕事に同行して色々な場所に滞在していましたが、学校に通う年頃になるとそうもいかなくなった。そこで母はすっぱりとキャリアを捨てて、子育てに専念したんです。ほかのお母さんたちのように学校の送り迎えをし、一緒に買い物に出かけたり宿題を手伝ってくれたり、休暇中は料理の腕を振るってくれたりもしました。我々一家は農場に住み、本当に普通の価値観の中で暮らしていたんです。

今のハリウッドを見ていると、この「普通」というのがどれだけ私たちにとって大事なことだったか、そしていかに母の決断が勇気のあるものだったのかを改めて感じずにはいられません。我が家にはセレブ的なカルチャーは一切ありませんでしたし、ハリウッド的な生活とはまったく無縁でした。もちろん母が俳優であることは知っていましたし、「君のお母さんがテレビに出ていたよ」というようなことは言われました。ただ、私が育った時代のテレビは白黒で2つのチャンネルしかなく、僕自身は『ローマの休日』や『昼下がりの情事』の一部をちょこっと観る程度。もう少し大きくなってからは、母が16ミリフィルムで出演作のコピーをもらっていたので、それを屋根裏部屋の壁にシーツを貼って、映写機を回して観たりしました。当時はビデオやDVD、Blu-rayなどはありませんでしたからね(笑)。

母の出演作品に触れたのもそのような状況だったので、大スターだという感覚は我々の中にはなかったんです。おそらく本当のスターだったと実感したのは、彼女がこの世を去ってからのように思います。世界中の人たちが母を追悼し、愛し続けてくれている。それによって我々も、母のすごさというのを実感したのです。

傷つきやすくも、たくましい。

ドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』には、息子や孫、家族ぐるみの友人など、プライベートに迫るインタビュー映像が盛り込まれている。

©️PictureLux / The Hollywood Archive / Alamy Stock Photo

──オードリーには常にエレガントなイメージがありますが、『ティファニーで朝食を』には「ムーンリバー」の楽曲が不可欠だと主張するなど、自身の意見もしっかりと伝える芯の強い女性だったということを知り、ワクワクしました。あなたの個人的な記憶の中にも、そんな彼女がいますか?

母は強さと優しさの両方を持ち合わせた人でした。私の妻は、母を「衣の下から鎧が見える(優しそうに見えるけど実は厳しい人でもある)」と例えたほどです。母は、自分が信じた人のためなら容易に立ち上がるけれども、自分のためにはなかなかできなかったように思います。例えばその「ムーンリバー」も、作曲家のヘンリー・マンシーニと作詞を担当したジョニー・マーサーが母のために作ってくれた楽曲だったので、スタジオが気に入らないという理由で映画から外してしまったら、彼らの努力は水の泡になってしまう。そのために母は声を上げたのです。

苦しい思いをしているアフリカの子どもたちのために立ち上がることも、母にとっては当然のことでした。でもこうして考えてみると、おそらく母は、自ら強く欲して手に入れるというよりも、自然の流れで自分の手もとにやってくることを願っていた気がします。それには、愛を強く求めながらも、戦争体験や報われることのなかった結婚生活が影響しているように思います。それでも確かなのは、母は傷つきやすい一方で、たくましくもあったということ。「恐れを知っているから勇気が出せる」と言いますが、まさにそういう人だったのです。

スピーチは、全て自ら書いていた。

1988年にユニセフ親善大使に就任したオードリーは、1993年に63歳で他界するまで精力的に活動した。視察のために訪れたバングラデシュの学校にて。

© UNICEF/NYHQ1989-0474/Isaac

──劇中、ユニセフの活動をするオードリーが「愛があればどんなに大変な仕事も大変ではなくなる」と語るシーンがあります。彼女が親善大使になったことでユニセフに大きな注目が集まりましたが、あまりの多忙さから、身近な人たちに弱音を吐くようなことはなかったのでしょうか?

母は1988年から亡くなるまでの約5年間、ユニセフの親善大使を務めました。その間にユニセフの規模は倍になりました。5年間で最大成長を遂げた組織の一つであり、寄付も同比率で増えたのです。もちろん影響力が大きかった分、多忙でもあった。それでも母から一度も不平不満を聞いたことはありません。私たち家族が「忙しい人生を送って来たんから、庭のバラの香りを楽しみながらゆっくりしたほうがいい」と言うと、母は決まって「分かっているわ。でも今回はとても大切な旅なの。来年は必ずゆっくりするから」と答えていたものです。

また、母はただの映画スターではなく、ものすごい勉強家でもありました。愛用していた英国王ジェームズ一世時代の古いダイニングテーブルは、いつも資料や本でびっしりと埋まっていました。彼女の頭の中には、訪れる国の情報はもちろん、あらゆるデータが詰まっていて、どのような活動がふさわしいかといった流れもすべて把握していました。その報酬は、年間1ドル。それだけだったんです。母がすべてのスピーチ原稿を自ら書くことができたのは、ひとえに学びを怠らず知識を身につけた努力の賜物です。だからこそ、母の行ったスピーチや言葉の数々は、今でも多くの人たちの共感を呼んでいるのではないでしょうか。

──お母様から受けた最も印象的な言葉、あるいは教訓があったら教えてください。

「自分らしくあること」というのが、母が私たちに残してくれた一番の教えだと思っています。かつてフランスの政治家エドゥアール・エリオが、こう言いました。「すべてを忘れても、文化や教養は生き残る」と。たとえ私が母のことをすべて忘れてしまったとしても、私の中に母が残してくれた教えは残るのです。たとえ川からすべの水が消えてしまっても、残された研磨された石がかつてそこに水が流れていたことを証明するように。そして親子であり友だちのような素晴らしい関係だったことも、私に残された財産です。母が必要としているときに、お腹を抱えるほどゲラゲラと笑わせてあげられたことも、かけがえのない思い出であり、私の自慢でもあります。

なぜオードリーは世界中で愛され続けるのか?

1988年には、内戦と干ばつでひどい飢饉に見舞われていたエチオピアを訪問した。Photo: Derek Hudson/Getty Images

──オードリーが亡くなって約30年経ちますが、世界は未だ戦争を行い、多くの人々や子どもたちが苦しんでいます。お母さまが生きていたらこの現状に対し、どんな行動を起こしていたと思いますか?

おそらく約35年前と同じことを呼びかけていたと思います。「人々に必要なのは教育だ」と。正しい教育を受けることにより、人は自らの力で選択をすることができるようになる。そして一方通行の考え方に傾倒しないように、物事を多角的に見る目を養うための教育を訴えていたように思います。

戦争は異なるイデオロギーによって起こるのだという考えから、我が家ではイデオロギーに束縛されない生き方を大事にしていました。というのも、母は高貴な家の元に生まれ、両親はナチスを信奉するファシストでもあった。ところが両親の離婚後に第二次世界大戦が始まると、母と家族(オードリーの母エラと二人の兄)は、対ナチスのレジタンス活動に参加するようになります。そして、戦争というこの世で最もひどい体験をした母は、心に一生癒えることのない傷を負ったのです。こうした実体験により、母はイデオロギーに振り回されることを良しとしませんでした。

人は一人では声は上げないかもしれませんが、集団になると、ときに暴走をして危険な状態になることがあります。しかし、誰もがそれぞれの価値観を持ちながらも、その考えを他者に押し付けることのない社会というのは、実はものすごく大切なことだと思うんです。

──そうした強い信念の持ち主であったことは、オードリーが今なお世界中で愛されている理由の一つだと思いますか?

私は世界中で「なぜオードリーは今でも世界中で愛されているのか?」という質問を受けます。そして辿りついたのは、母は自分たちと変わらぬ一人の人間で身近に感じられる存在だからだという答えです。エリザベス・テイラーのような絶対的な銀幕スターとは異なり、オードリー・ヘプバーンは身一つで海を越え、シンプルな黒のドレスで世界へ飛び込んできた。だから我々は彼女を応援したくなる。それが、30年間この質問を受け続けてきた私が出せる、唯一の答えなのです。